かなこ(@morahara_help )です。
大学生と高校生の2人の子どもがいる大阪のおばちゃんです。
夫から「モラハラ」を受けている、ということに気が付いたのは今から10年ほど前のことです。
モラハラを「受けやすい人、または性格がある」といわれます。
思えば夫からだけではなく、周りにはいつもモラっぽい人がいました。
わたしはもしかしたら「モラハラを受けやすい」性格だったのかもしれません。
わたしの性格的なものに問題があったんだろうか。
「モラハラ」について調べていくうちに、「モラハラは連鎖する」こと、「面前DV」にさらされたり、いわゆる「毒親」のもとで育った子供にはある特徴があることに気が付きました。
わたしの生い立ち、親との関係は、モラハラを受けたわたしの『性格』や『人となり』にどのように影響を与えたのか。
思い出しながら整理し、自分がなぜ「モラハラをしやすい」と相手に思われるようになったのかを考えてみようと思います。
話はやや長くなります。
ですが、自分の今の性格や夫との関係、人との関係を考えるときに、親との関係を切り離すことはできないと思います。
そんなわけで、いましばらくおつきあいくださいませ。
父から母へのモラハラ
父もモラハラ体質でした。
でもわたしは、父のモラハラを「昭和の亭主関白」ぐらいにしか考えていませんでした。
むしろ、母との関係からして父が母にモラハラするのは「仕方ないこと」だと考えていました。
それは母がとあるカルト宗教に依存するようになってしまったからです。
そのことをお話しする前に、まず父と母のことをお話しします。
わたしがモラハラを受けやすいこと、夫に「依存」するようになり、夫から逃げられなくなったのは両親の関係性、そしてわたしが受けた教育を抜きにしては考えられないからです。
父と母の死産のはなし
父は大学を卒業した後大企業に就職し、定年まで勤めました。
両親が結婚したのは高度経済成長期真っ盛り。
父は27歳、母は22歳で結婚しました。
若い夫婦のスタートは社宅。
結婚してすぐ子供ができました。
ところが、母ははじめての赤ちゃんを難産で亡くしてしまったのです。
いまでも母は初めての子を亡くした時のことをあまり話したがりません。
以前、祖母がまだ生きていたころ、そのときの母の様子を聞いたことがあります。
『悲しみのあまりあの子は気が狂ってしまった』と祖母は思ったそうです。
お葬式の日、ちいさなちいさな棺に納められた赤ちゃん。
いまなら助かったかもしれません。
けれども50年前の周産期医療では助からなかった。
何事もなければ、母は「ママ」になり、初めての赤ちゃんを抱いていたはずでした。
社宅には父と同じ年頃の家族がたくさんいましたし、第二次ベビーブームの真っ盛り。
社宅には母が抱くはずだった赤ちゃんと同じ時期に生まれた赤ちゃんと、そのママたちでいっぱいでした。
昔、母にその時の様子を聞いたことがあります。
母は家に閉じこもり、カーテンを閉めて赤ちゃんの姿や声が聞こえないようにしていた、と言っていました。
わたしも子供を持つようになり、赤ちゃんのかわいらしさや子育ての楽しさもわかるようになった今は、当時の母の気持ちが痛いほどよくわかります。
どんなに悲しかっただろう。
どんなに辛かっただろう、と思います。
母の悲しみは翌年、わたしを妊娠したことで和らいだのかもしれません。
きっと赤ちゃんが本当に生まれるて自分の手に生きている子を抱くまでは、気が気でなかったでしょう。
「初めての子供を亡くす」という母にとっては人生最悪の一年であったと思います。
そしてその辛い一年の間に、母はとある宗教にのめりこんでいくのです。
そしてそのことがまた、わたしの人生にも大きく関わってくることになりました。
母の信仰とカルト宗教
この宗教がまたとんでもなく「モラハラ」体質の人間と「モラハラ被害者」になりやすい人を作り出すものだったのです。
キリスト教系のこの宗教では男性は女性を大切にすべき、と教えていましたが一方で、男性は女性のの上に立つもの、女性は男性に対して黙っているべきという教えを持っていました。
もちろん、この宗教の中でも奥さんを大切にし、幸せな家庭を作り上げている方もたくさんおられます。
ですが、日本古来からの「男尊女卑」の考えの傾向が強い人たちはこの「男性優位」の教えをかさに、なお一層男尊女卑思想を強固にしていく傾向がありました。
わたしも夫から「お前は俺と対等やと思ってんのか」と言われたことがあります。
そういうことです。
話をわたしの父と母のことに戻します。
初めての子供を亡くした母がどうしてこの宗教と接するようになったのか。
いきさつはこうでした。
わたしが生まれるまでの1年余りの間、母を慰めてくれたのは同じ社宅の年の近いママ友たちでした。
ところがこのママ友たち、とある宗教の信者だったのです。
いまでは『カルト』としてよく知られている宗教ですが、初めての子供を亡くした悲しみに暮れる母は、一番つらい時に寄り添ってくれた人たちが勧めるその宗教に、ためらうことなく入信したのでした。
もともとお嬢様育ちでミッション系の私立学校で育った母でしたから、キリスト教には抵抗がなかっのも大きかったのだと思います。
しかし、その宗教は「聖書を使う」とはいえカトリックとはまったく違う教義を信じており、そこに母ははじめこそ抵抗を感じたようですが、社宅のママ友から聞いた「復活」の教理にのめりこんだのではないかと思います。
「復活」の教理とは、キリストが死んで3日後に生き返ったように、死んだ人が将来生き返って家族と再会できるときが来る、というものでした。
その教えは子供を亡くしたばかりの若い母親の心を強くとらえて離さず、母はその宗教をやめさせようとする父との間に軋轢を生じさせていきました。
そしてもうひとつ、この宗教は子供を「従順な子供」に育て上げるために子供を「鞭打つ」ことを奨励します。
キリスト教には「原罪」という、「人は生まれつき罪を持っており、それゆえに正しいことを行おうとするときに必ず葛藤が生じる」という教えがあります。
母がのめりこんでいった宗教はこの教えをもとに「子供を鞭で叩くことは虐待ではなく、むしろ親の愛ある行為である」と教えます。
子供を鞭で打ち懲らすことによって、子供の中にある「愚かな考え」から引き離すことができる、というのです。
明確な基準などありませんでした。それぞれの信者の考えによって「懲らしめの鞭」の程度は違いました。
今なら確実に「虐待」として通報されるでしょうが「当時は」まだそのような世論もなく、子供たちは悪いことをすれば親や周りの大人からげんこつを食らうもの、むしろそうすべきと考えられていたこともこの宗教の教えを助長していました。
子供時代~小学生時代
この頃、父のご機嫌を損なうと怒鳴り声が家の中に響き渡り、父が帰ってくると家の中は一気に緊張でピリピリした雰囲気になっていきました。
父は母のその新しい信仰をなんとかやめさせよう、宗教を捨てさせようと躍起になっていました。
離婚をちらつかせ、暴力に訴えることも、夜に集会に出かけている母を、真冬に玄関のカギをかけて締め出したりすることもありました。
そんな両親の関係が最悪にこじれにこじれていたころの当時7歳、小学校1年生のわたしは、冬の寒空の下、母が死んでしまうのではないかと眠れぬ夜を過ごし、夜が明けると母を探し回りました。
(結局母は実家に帰っていたのですが、この時わたしは初めて母が死んでしまうのではないかという恐怖を味わうことになりました)
「面前DVは虐待」であると最近の研究で言われるようになりました。
親や自分の兄弟が目の前で虐待を受けているのを見続けていると、それを見ている子供にいろいろな悪影響がでることがわかっています。
・空想の世界に逃避しがちになる
・いつも激しい怒りを抱えている
・楽しい時がいつ崩れるかわからないという不安をいつも持っている
・常に緊張を強いられ安全感や安心感が育たない
・他者を信頼できない
・自分がDVの原因だと思う
・罪悪感やDVを止められないという無力感にさいなまれる
・自己評価が低くなる
・「強者」が「弱者」を支配するのが当たり前で、「弱いことは悪だ」と考える
・暴力で問題を解決しようとするDV(ドメスティック・バイオレンス)と児童虐待 ―DVは子どもの心も壊すもの―| 内閣府男女共同参画局内閣府男女共同参画局のホームページです。...
このころのわたしにいくつも当てはまることがあります。
モラハラ被害者の特徴の1つは「自己肯定感が低い」ということです。
子供の頃に自分の目の前で起きていたことは、わたしの成長の過程において影響がなかったとは考えられません。
突然父は母に対して激高し、暴力的になりました。
いまでこそ、父もモラハラ気質だったし、母が受けていたのは身体的なDVだけでなくモラハラだったのだとわかります。
ですが当時子供だったわたしにはそんなことは知る由もなく、「母が信じている宗教が正しいとしても父に養ってもらっている以上、母やわたしたちは父からの暴力にも耐えなければならない。仕方ないこと」と思い込んでいたのです。
「自己肯定感」が低く、「人を信頼できない」
「強いものが弱者を支配するのは仕方ない」
「弱いものが悪い」(だから自分が悪い)
これはモラハラを受けている人によく見られる考え方です。
わたしは知らず知らずのうちに幼いころからこういった考え方に侵され、人格は固まっていったのかもしれません。
きょうだいは5人いるのですが、同じ環境で育ったのにわたしに特に強くモラハラを受けやすい人の特徴的な性質が現れたのは、長女であり、母への父からの身体的、精神的な暴力を多く見てきたからだろうと思っています。
妹はひとつしか違わないのですが、母に対して嫌なことは嫌、とはっきり言える子でした。
妹は母を怒らせることをい何とも思っていないようでした。
その代わり、母から叩かれようがお小遣いをもらえなかろうが、自分でなんとかしてきました。
妹は「自他の境界をはっきり引く人」だったのだと思います。
わたしにはない性質を持っていたことを当時は羨ましく思うとともに「ずるい」という妬みの気持ちからずいぶんケンカもしましたし、大人になって妹が家を出ていってからは長く絶縁状態が続いていました。
今は妹とも和解し、仲の良い姉妹に戻ったのではないかと思います。
中学~高校時代
中学一年の時にわたしは浸礼を受け、わたしも母と同じ宗教の信者となりました。
わたしも教義をまるっきり信じていなかったわけではなく、コミュニティも宗教組織の中にできていて、むしろ外の社会との接点はほとんどなくなっていました。
話はそれますが、この宗教からもわたしは夫と別れるのと同時に脱退し今は一般の人と同じように生活しています。
閑話休題。
信じられます?
高校生になってもまだわたしは自分の着る服すら自分で選べなかった。
この頃には「母と信仰に基づいた生活の基準」はすべてのことに及んでいました。
そしてわたしは、今度は父だけでなく母の顔色をうかがう子供になっていたのです。
母を父の暴力から守ってあげられなかったという自責の念から、自分の我を通すことで母を悲しませたくないと思うようになっていました。
「母を悲しませたくない」という気持ちが今度は「母の顔色をうかがうこと」「母の機嫌を損なうことはしない」にすり替わりました。
着る服ひとつとっても母の基準は絶対でした。
母の基準とはわたしたちが信じていた宗教の基準です。
キリスト教系の新宗教の中でもとりわけ厳格で服装や振る舞いについて厳しい見方を持っていたため、信者である人もその子供もみな上品ではあるけれど地味で、みな似たような服装をしていました。
そんな宗教の信者であった母が「そんな服はダメ」と言えば、それがどんなにお気に入りの服であっても二度と着ることはできませんでした。
友達は同じ宗教を信じている人たちの中から選ぶように言われていたので、友達と一緒に買い物に行くということすらしたことがなく、初めてそれを経験したのは高校2年生になってからでした。
ところが、友達と服を買いに行っても母がいないため、なにを買ったらいいものやら途方に暮れる始末。
「自分が気に入ったかどうか」ではなく「母が気にいるかどうか」ばかり気にしていました。
この時すでにわたしはもうすでに「自分がどうしたいか」「何がしたいか」「何が好きか」が、わからなくなっていたのです。
「そんな宗教やめてしまえばよかったのに」
そう思われるでしょうね。
でも、わたしにはそれができませんでした。
父に宗教をやめるようにと止められ、殴られ、真冬に家の鍵をかけられて締め出され、それでもやめない母。
わたしは、父の暴力から母を守れない、という自責の念を抱え、自分だけは母を裏切ったらいけないのだと思ってきました。
まさにモラハラの被害者にありがちな
・DVの原因は自分である(関係ない)
・暴力を振るわれる原因を作った方が悪い(そんなことない)
・養ってもらっている弱い立場の者は強いものに従わなければならない
そんな歪んだ考え方を身に着けていったのだと思います。
ここまでですでにわたしには「モラハラの被害者」になる土台は十分にできあがっていました。
高校卒業~結婚
わたしは大学に行っていません。
本当は大学に行きたかったのですが、くだんの宗教では大学進学は事実上禁止されていました。
パートで週に3日ほど働き、あとは宗教活動に加わるようにと促されていました。
もちろん、そんなことはお構いなしに大学に進学し、普通に就職し結婚していく人もいます。
ですが、わたしは「いい子」でいたかったのです。
母の望む「いい子」に。母が自慢できる「いい子」に。
そうしてわたしの「相手の望むことを推し量り、自分を殺すこと」とともに「自分のしたいことをするために、相手と争うことを避けて内緒でやる」ようになりました。
怒られないように、叱られないように・・・。
そしてもう一つの重要な要素として「依存」という最悪の生き方もこの間に身に着けてしまったのです。
週に3日のパートでは、本来よほど特別な専門職でもなければ自活して生きていくことなど難しい。
ひとりで生きていくことができないなら、誰かに寄りかかって生きていくしかない。
独身でいる時は親に。
そして結婚相手に。
「依存」する生き方が絶対に悪だとは思いません。
わたしたちはひとりで生きていけるわけではなく、いつも誰かに、そして何かに依存して生きているからです。
太陽がなければわたしたちは毎日真っ暗闇の中で暮らさなければならず、食べるものもいまほどバラエティに富んだものはないかもしれない。
風がなければ雨も降らず、食べるものも育たない。
赤ちゃんは世話をする大人がいなければ生きていくことすらできない。
けれど、人は、特に経済的に誰かにまた何かに依存してしまったら途端に弱くなる。
お金を出してらう側はお金を出してくれる人の「奴隷」になります。
「自分も働いて自立すればいいじゃない」
そう思うのはわかります。
でも、宗教というかごの中に閉じ込められたままで大人になり、まともな社会人としての経験もなく、高卒の女性の賃金の低さを考えると「もうこのままでいいや」と考えてしまったのです。
ではここで今度は夫の側から見てみましょう。
夫はなぜ「モラハラ」体質になり、妻にモラハラをするようになったのか。
やはりそこにはわたしと同じ問題が隠れていることに気が付きます。
夫のモラハラ体質はどのように作り上げられたのか
夫もわたしも同じ宗教2世です。
夫の母親も、わたしの母と同じ時期に入信しています。
やはり夫からの猛烈な反対とやめさせようとする妨害、身体的なDV、同居していた義両親からのいじめ。
それは壮絶な経験をしてきています。
それが原因でうつ病になり、さらに統合失調症を患うようになりました。
不思議なもので、人は反対されればされるほど「なにくそ」という気持ちがわき、反発するものです。
それが宗教となるとなおさら意固地になるのはどの宗教でもあることだと思います。
わたしたちの親が信じた宗教は世界中でカルトとして嫌われており、その宗教に家族がとらわれると親族一同からみな猛烈な反対が起きます。
しかし、この宗教では「キリストも教祖として迫害を受けて殺された。正しいことをしようとするときに人は必ず反対されるもの」と新しい信者に教えます。
「世界中の仲間も同じように反対を受けている。でもみんな決して負けない。あなた一人ではない。やめてはいけない」と鼓舞するのです。
そうして反対が強ければ強いほど、組織に対する依存心を強めていくのです。
夫もまた、両親の間でのDVを見てきた面前DVの被害者です。
そして彼の場合、母親がわたしの親に輪をかけた強い信仰の持ち主であり、過干渉の激しい「毒親」でした。
おまけに祖父母が同居していたため昔ながらの「男尊女卑」思想にも、さらされてきました。
「妻が夫の言うことを聞くのは当たり前」
「夫の意に反して何か行動しようとするときには殴られても仕方ない」
「殴られる方にも原因がある」
そんな考え方が自然に身についていたのだと思います。
父親から子へ、子から孫へ。
夫の場合もまた、「男性であること」に必要以上の強大な権力を持たせる家庭の影響がありました。
こうして「モラハラ」の世代間連鎖はおきました。
さあ、舞台と役者はそろいました!
ではわたしが初めに夫との関係で「これはモラハラなのでは」と思った出来事についてお話ししましょう。
子供の大病とモラハラ
「女はいらんで。女やったら粗大ごみの日に捨てに行く」
上の子を妊娠したことを告げたときに夫が放った言葉です。
子供が「死んでしまうかもしれない」病気にかかったとわかった時、夫のその言葉がフラッシュバックしました。
子供が小学校5年生の時、「悪性リンパ腫」と診断されました。
小児がんのひとつで白血病とよく似ている病気です。
その治療のために子供が入院していた7か月の間に夫のモラハラがどんどんひどくなっていったのです。
この病気は白血病と同じように、骨髄ががん細胞に侵されて正常な細胞が作られなくなる病気です。
幸い7か月間入院して寛解し、今年二十歳になりました。
10年前は助からない「不治の病」であった小児がんも、最近では治療法が確立され救命率は80%といわれています。
とはいえ、病気が発覚した時には全身の力が抜けるほどのショックを受けました。
診断が出たときには「治療をしなければあと1か月」と宣告され、「頭が真っ白になる」というのはこういうことか!
それでも、病気と実際に闘わなくてはならないのは娘ですし、わたしが泣いているわけにはいきません。
それにわたしたちにはもう一人下に息子がおり、その子のためにも無理にでも明るく振舞っていました。
娘の11歳のお誕生日が1か月後にせまった夏休み最後に発覚した病気。
いろいろなことを考えなくてはいけなかった。
まずは娘の不安をできるだけ取り除くために、初めの1か月は病院に泊まり込みました。
でも下の子の不安もフォローしてやりたかった。
だから、夜に下の子を寝かしつけてから起きだして病院へ戻り、娘と手をつないで眠りました。
そして朝早くにまた家に戻って下の子を学校へ送り出してからまた病院へ。
娘が入院した病院は家から1時間ほどの場所にあり、遠くもないけど近くもなかった。
電車に乗っている間に涙が止まらなくなり、周りの人を驚かせてしまったことも。
そうやって子供たちのフォローを必死でしている間に、なぜか夫がどんどん冷たくなっていったんです。
夫はわたしが子供に「かまいすぎる」と思っていたようです。
「病気が治ったら自分で生きていかなければならない。いまあれこれ手を出しすぎるのは子供のためにならない」と。
いや、言ってることはわかります。
けれど、今は子供にも病状と余命についてはっきり宣告する時代です。
5年生の子供とは言え、自分が重病、もしかしたら「死ぬかもしれない」ということはわかります。
親とは言え「絶対大丈夫だから」なんて無責任な励ましはできない。
親としてわたしにできることがあるとすれば、子供と一緒にいること、痛むおなかをさすり(娘は脾臓原発のリンパ腫でした)、不安な気持ちを和らげること、1人にしないこと、だと思いました。
そのあたりは夫ともっと話し合うべきだったのかもしれない。
夫だって娘の病気にうろたえていたのは間違いないし、たぶん、自分は働いてお金を出すことが役割だと思ったのかもしれない。
病気が治って生きていけるようになっても、再発があるかもしれない。
でも、大人になってからも生活のことを心配しながら生きなくてもいいように、安心できる「太い実家」を作るためにがんばろうと思ったのかもしれない。
それぞれが「できること」をやろうとしただけなのかもしれないけれど、夫はわたしのしていることが気に入らない、という態度を露にするようになったのです。
わたしが娘の付き添いから疲れて帰ってきても娘の様子を聞くでもなく、ただだんまり。
なにが気に入らないのかひたすら不機嫌な様子で無視し、ため息をつき、それまでで一番ひどいモラハラをこの時期に投げつけられました。
娘の病状は徐々に良くなっていきましたが、それを一緒に喜んでくれることもなく、ただただ不機嫌をあてつける夫にほとほと愛想が尽きました。
それでも、娘が退院し、やっとひと段落ついたころ「なぜそんなにわたしに不機嫌な態度を取り続けるのか」と聞いたことがありました。
そうしたら半年間の不満をぶちまけ、あげく言ったのです。
「離婚しようと思っている。離婚届けはもらってきている」って。
もうこの頃にはわたしも夫の仕打ちはあまりにも思いやりがなく、それまでの10年間の間にも感じていた愛のなさにほとほと、一緒に暮らしていける自信がなくなっていました。
「モラルハラスメント」とは何かを知る
それを知ったのはTwitterでした。
趣味で始めたTwitterを見ていた時、ある小児科医師(@Pnagashi)のツイートが目に入りました。
そこにかかれていた状況がわたしとあまりにもよく似ていたため、ながし先生にリプを送りました。
「わたしが受けているのは先生がおっしゃる『モラハラ』というものでしょうか」
「モラハラです。別れちゃっていいと思います」
なんと!自分は長いこと夫から「いじめ」を受けていたんだ。
我慢することなかったのね。
それまでのわたしの考え方はこうでした。
「モラハラを受けるのは自分が至らないせい」
「夫を怒らせる自分が悪い」
「自分が我慢していさえすればなんとかなる」
ましてや夫に経済的に依存し、離婚したとしても一人で子供を育てながら生きていくことを考えただけであきらめの感情に支配されてしまう。
そんな時いつも母が言っていた「屋根のある家と寝る場所とがあればいいとするのよ」という言葉が頭をよぎりました。
つまり「夫からの愛情なんか求めない。どんなに冷たくされ、厳しく当たられても生活に窮することがなければ我慢しなさい」ということです。
でも、本当にそれでいいの?
1度しかない人生、夫に虐げられ悲しい気持ちを隠してこれからも暮らしていくの?
何十年も・・・・?
そう考えたら、バカバカしくなってきました。
よし、何年かかってもいい、この人とは別れよう。
そう決意してから、まずは「モラハラ」とは何かについて調べ、離婚するとしたらどんな準備が必要かを調べ始めました。
・離婚するための手順
・受け取りが見込める公的な手当て
・正社員として就職すること
調停や慰謝料請求は時間がかかることがあり、決まった額が支払われないこともよくあること。
それでも、とにかく家を出ることを目標にするなら、ある程度のお金が必要になります。
とにかくお金を貯めよう。
わたしの離婚準備はそこから始まりました。
まとめ
モラハラはDVです。
「自分さえ我慢していれば子供たちに不自由な生活をさせることもない」
「スキルも何もないただの主婦がいきなり離婚して家を出ていったって路頭に迷うだけ」
そんな風に考えてわたしもなかなか行動できませんでした。
でも、いま働いて自分で家を借り、夫と距離を置くようになって少しずつ自分を取り戻しつつあります。
自分が何を好きで、なにが嫌いだったのか。
そして、自分が我慢していることで子供たちに面前DVの影響を与えなくて済むようになり、わたしのような人間を減らせたことが何よりうれしいです。
どうぞ、あきらめないでください。
自分さえ我慢すれば、なんていって自分の気持ちを殺さないで上げてください。
背景は違うけれども、わたしが見知ったことから、なにかしらヒントを得ていただけると幸いです。
いつかあなたも自由になり、「あなたらしさ」を取り戻せますように。